大菅小百合in五輪、渾身のレポート(2)
Text by 米田昌浩(PRISM)

 翌日、2本目が始まる前のリンク上には、必死に氷の感触を掴もうかとしているように、何度も何度もコースをまわる大菅の姿があった。客席から見ている限りでは、体の動きに堅さはない。しかし、アップの滑りと、全力の滑りはまったく別のものだ。何度となくコースを周回する姿には、焦りもあるように感じてならなかった。
 嫌な予感がしていた。それは前日の滑りを見た時から、消えないものだった。どうしても、どうしても、嫌な予感を振り切れない…。遥々東京からソルトレークシティに来たのは、大菅が表彰台に立つ姿を見るためだったんじゃないのか?
 そんな自分に対しての言葉も、その予感を振り払うことはできなかった。
 そして、本番2本目のレースが進み、いよいよ大菅の順番が来る。祈るような気持ちで見ていた。スターティング・レーンに立つ。姿勢を低くして、構える。…しかし、2度にわたり同走選手との呼吸が合わず、スタートを切れない。この微妙な間が数秒後の悪夢を生んだのだろうか?
 3度目のスターティング・レーン。姿勢を低くして構える。号砲が鳴る。その時、スターティング・レーンのやや後方のスタンドにいた自分は見た。
 一歩目の右足の蹴りが氷を咬まなかった。その瞬間、周囲が黒い霧のようなものに包まれたような気分になった。
 それがすべてだった。スタートダッシュが武器の大菅にとっては、命取りともいうべき一歩目の失敗だった。その後は、スローモーションのように二歩目、三歩目とバランスを崩していくのが見えていた。その後、何とか持ち直して必死に滑っていたようだが、自分にはそんなことを見て感じる余裕など、どこにもなかった。
 しばし呆然としていた。その後のレースの記憶はあまりない。気がつけば、リンク中央でうずくまって動かない大菅の肩に、所属チームの今村監督が手を置いて、何か囁いているような光景があった。
 気を取り直して、母親・はるみさんの元へ向かった。はるみさんはすでに目に涙を浮かべていた。
「残念でしたね」
「…はい」
「今日のレースはちゃんと見てあげることができましたか?」
「ええ…何とか頑張って見ました」
「でも、4年後がありますよね?」
「…でも、小百合がまた4年後にオリンピックに出るとは限りませんから…」
 それ以上、言葉が続かなかった。
 スタンドの観客もまばらになってきた頃、大菅が監督、関係者に連れられてスタンドへと上がってきた。そして、はるみさんの姿を見つけると、そのまま駆け寄り泣き続けた。初めて経験した敗北だったのだろう。初めて心の底から悔しかったのだろう。言葉は何も発しない。ただただ、母子抱きあい涙を流し続けていた。
 その姿を見つめながら、今村監督に話を聞いた。監督の話によると、その日の大菅はそれほど緊張していなかったという。やはり、あの2度スタートが合わなかった短い時間に微妙に精神の集中が乱れたのだろうか?
 結局、ソルトレークシティでは、大菅小百合という選手の滑りは見ることができなかった。そこにいた選手は、まるで別人かのようであった。本来は男子選手のような力強い下半身の蹴りで一気にスピードに乗り、その唸るような勢いでゴールラインまで駆け抜ける、女子選手にしては珍しいタイプの、大菅小百合ならではの滑りがあるはずだった。しかし、そこで見たのは、普通の女の子がスケート靴を履いて、氷の上を必死に滑ろうとしている姿と言えば、きっと本人は怒るだろう。
「オリンピックは何が起きるかわからない」
「オリンピックには魔物が棲んでいる」
でも、大菅小百合にそんなものは関係ないと思っていた。そう信じてこれっぽっちも疑わなかった。何故だろう…?
 彼女がそんなオーラを発していたのだろうか? でも、それは長野でのことで、オリンピック会場では彼女とちゃんと話はしていない。
 ソルトレークシティでのオリンピックは終わった。しかし、彼女のスケート人生はまだ終わったわけじゃない。W杯後半戦、そして毎年、世界スプリントなど大きな世界大会があり、4年後にはイタリア・トリノで再び冬季オリンピックが行われる。その時、彼女は25歳。スピードスケートの選手としては、やっと若手から中堅の域に首をつっこみかけたくらいだ。まだまだ先は長い。但し、それは彼女が“スケート靴を脱がなければ”の話だ。自分はこれからも大菅小百合の姿を追いかけていくつもりだ。彼女が自分からスケート靴を脱ぐまでは。
 ソルトレークシティに立つ前に、いつもは右手の薬指に銀の指輪を1つはめているのだが、縁起を担ぐつもりでもう1つ金の指輪を買って小指にはめていった。この金の指輪は、いつか彼女が世界の大舞台で金色のメダルを取るまで、ずっとはめておこうと思う。

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